最近思うこと、感じること    金丸 太一郎

 今年我が家に受験生がいるので、スキーに行けないから思うのかもわかりませんが、暖冬だということです。タクシーのドライバーも言っていましたが、京都駅八条口を出発するスキー客を乗せたバスも、今年は少ないそうです。1月8日に丹後の与謝町に葬式に行ってきたのですが、7日から降っていた雪が心配されましたが、ほとんど雪の影響はありませんでした。20年〜30年前は雪深いところだったそうですが、ここ10年は雪があまり降らなくなったそうです。 地球温暖化の影響に違いはなく、このままのペースで行くとおよそ50年後には北極の氷が解けてなくなるとか・・・ 地球規模の問題に、私のような者が出来ることは針の穴のように小さいことしか出来ません。でも50年後、私たちの子どもたちは生きているわけですから、何か出来ることからして行かないといけない、そう思います。買い物袋を持って買い物に行く。車を出来るだけ使わず、公共の乗り物を利用する。所謂、リデュース、リユース、リサイクル、リペアを実行していくことが、我々大人の緊急の責務だと思います。 ですが、自分の楽しみを大切にしたいのも事実です。いくら頑張っても、禁酒、禁煙、出来ません。子どもたちのために働いていると言うよりは、飲む為に働いているというのが正直なところです。これがないと、生きている楽しみがないのです。小さな事から、出来ることから、出来る範囲でやれることをやる。たいした人間でもない自分が子どもたちにしてやれることは、これじゃないかなと思います。 少し古いですが、「小さな事から、コツコツと。」これが、私が最近思うことです。


 年初の雑感     西堀 和之

 昨年末に、従兄弟が癌で死亡。12月初め本人から『癌に負けた。』と突然電話が入る。私と彼とは1歳違い。1本の電話から闘病中の彼を見舞ことになる。残念ながら衰弱で抗癌剤の投与もできず、延命効果は期待できぬまま弱り行く姿を看取る。野辺の送りで2006年が閉じた。今までにも病に倒れ別れた友が多数いたが、彼の死は私に大きなショック。健康に感謝するとともに、与えられた命ある限り悔いのない人生を歩みたいと願わずにはおれない気分になる。 正月は喪に服しているため初詣は神社を避け、本来なら願い寺に詣でるが筋であるが、市内になきため近場の寺に参る。彼の成仏と、我と家族の健康と平安を仏に祈る。大きな境内に本堂、塔頭を持つ寺と異なり、門をくぐれば直ぐお堂があり手が届くところに長年のローソクや線香の煙で黒くすすけた仏が鎮座。昔から地域の人たちに慕われ信仰の対象である仏の柔和な眼差しは落ち込んだ気持ちを癒し、慈悲の装いは励ましを与えてくれる。今までにない充実した初詣なり。 暖冬とはいえ寒中での甘酒と大根煮、みかんの振舞は名状しがたい。 海外出張の際、滞在先の教会に立ち寄りしばし椅子に座っていると聖母マリヤが悩める子羊の疲れを癒し励ましてくれるような気分になることがある。この正月の初詣はまさしく外国の教会で感じると同じ思いをもたらし、山門を出るときには何かしら清々しい気分を覚えさせた。思うに古の昔から人が集まり、慕われ支持されてきたところは規模の大小にかかわらず宗旨や宗派を超えて人に心の安らぎを与えるところと思う。 世の中の景気は順調に上昇中というが、人の営みについては、人をだまし傷つけ果ては命を奪う。さらには与えられし命を己が手で絶つということが新聞・TVで報道されている。昔からあった事ではあるが連日のごとく報道されることは、一部の人達のこととしても生活に追われ、心のゆとりをなくし、荒んだ生活を送っている病んだ人が増えていることを示しているのではないか。 京都には千数百の寺があると聞く。そのうち本山といわれる寺院が3割とも。もしこれ全て前述のごとき場としての役割を果たすとすれば、新聞TVの報道はその数を減らすように思うが、一方で三途の川も金次第。拝観料を払ってまで人は仏の下に集うのでしょうか。